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筒美京平 TOP 10 HITS 1967-1973レビュー

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2021年に発売された筒美京平 TOP 10 HITSの4枚のCDについて、毎回1枚ずつレビューしている。今回は3回目で、最も初期にリリースされた1967-1973について記載する。

以前に記載した筒美京平TOP10HITSレビュー

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1967年だと56年前、1973年でも50年前の曲のはずだが、こちらにも今聴いても色褪せない名曲が沢山ある。

ブルー・ライト・ヨコハマ(いしだあゆみ)、また逢う日まで(尾崎紀世彦)、17才(南沙織)あたりは、歌謡曲に詳しくない方でも一度は聴いたことがあるのではと思う。

 

京平先生がいつ作曲家デビューをしたのか気になって調べたところ、1966年8月、「黄色いレモン」(藤浩一ほか、競作)で作曲家デビューしたとのことだった。*1

それからわずか2年でバラ色の雲をヒットさせるのだから、才能と音楽への情熱が凄すぎる。

 

1960年代後半から70年代前半というと、世の中のブームがグループサウンズから、アイドル歌謡へ変遷していく時期である。

京平先生も、出世作といわれている、バラ色の雲(ヴィレッジシンガーズ)、郷ひろみのデビュー曲、男の子女の子、私の彼は左利き(麻丘めぐみ)とグループサウンズとアイドル歌謡の両方を手がけていたことがわかる。

それにしても、50年以上経っても多くの人の心に残る歌を世に送り出した、京平先生は凄すぎる。さらば恋人(堺正章)は、2023年の初夏に北海道神宮フォークうたごえまつりで歌っていた方がいた。

 

1971年にレコード大賞を受賞した、また逢う日までは、歌詞や歌手を2回代えて大ヒットさせたというあきらめない精神がものすごい曲である。

 

もともとは1969年(昭和44年)、三洋電機(現・パナソニック)のエアコンのCMソングの候補曲として作られたものであったが、スポンサー側の方針変更により採用されず。

京平先生の楽曲を管理していた日音の村上氏がこの曲を埋もれさせるのは惜しいと考え、「白いサンゴ礁」でヒットを飛ばしていたズー・ニー・ヴーの新曲として採用。曲を「白いサンゴ礁」の作詞者でもある阿久悠に渡した。阿久は「安保闘争で挫折した青年の孤独」をテーマにした歌詞を付け、1970年2月10日、「ひとりの悲しみ」というタイトルでリリースされたが、ヒットにはならなかった。

その後、メロディの良さに惹かれていた村上は、「分かりやすい歌詞にして力強い声で歌えば、必ず聴衆の心をつかめる」と考え、尾崎に「ひとりの悲しみ」をテスト録音させる。また、尾崎自身もこの曲を気に入ったことを多くのテレビ番組で言及している。これはヒットすると確信した村上は、歌詞を書き直してくれるよう阿久を説得する。当初渋っていた阿久も度重なる依頼にリメイクを承諾し、尾崎のために改めて「別れ」をテーマにした歌詞に書き換え、タイトルも「また逢う日まで」として1971年にリリースされた。オリコンシングルチャートで1位を獲得、同チャート集計では100万枚に近いセールスを記録した。累計では100万枚を突破している。*2

 

昨日、嗚呼!みんなの動物園を見ていたら、池崎さんと預かり猫の特集をやっていたときに、また逢う日までが流れていた。預かり猫が新しい家族のもとへ引き取られ、池崎さんとお別れをするシーンに今までの映像も交えて使われていた。歌謡曲特集ではなくて、バラエティー番組の合間にも流れるくらい、京平先生の曲は親しまれているのだ。

 

曲によっては時代を感じるものもあるが、キャッチーなメロディーはこの年代から際立っていると思う。是非聴いてみてほしい。

 

 

*1:wikipedia「筒美京平」参照

*2:wikipedia「また逢う日まで(尾崎紀世彦の曲)」より引用